私も政治経歴は相当古いほうになり、残された政治生命も、人間的な生命も、そう長くはない。これまで、閣僚や国会の委員長等を務めてきて、突き当たったのはやはり憲法である。憲法を直さないとこの国はやがて滅びていくと思い至っている。
スペインにしてもポルトガルにしてもギリシャにしても、世界の大国となり、一度は栄えた。しかし、その栄えた国が衰亡していった。日本も戦後の大変な努力で、一九九〇年ぐらいまでは調子よく来た。あの当時、誰も日本が下りになるとは思っていなかった。
社長が重役と一緒に毎年交代する企業はどうなるかを考えてほしい。日本の「失われた十年」といわれる間に、総理大臣が十人以上替わっている。閣僚も替わっている。当然のことながら、これでは一貫した政策は採れない。そのために経済もダメ、政治もダメ、全てダメになってきた。
ここで日本を再生させるために残された唯一の手は何か。新しい国の形を作ることが最も肝腎ではないか。憲法は国の形、国の心を書き上げるものだ。それがこの五十数年間、一度として改められなかったところに、日本の悲劇がある。
【占領政策の基本は日本弱体化】
戦後どういう経緯で憲法が成立したかについてはご承知の通りである。
昭和二十(一九四五)年に日本はポツダム宣言を受諾し、敗北した。八月二十七日、マッカーサー司令官は厚木の飛行場に降り立つと、真っ直ぐ宮城前の第一生命ビルに入って連合国軍総司令部をつくった。その後の日本は、講和条約を結ぶまではアメリカの統治下にあったといっていい。沖縄・小笠原は講和条約後も引き続きアメリカの軍政下に置かれ、返還が実現して、初めて沖縄・小笠原にも日本の新憲法が適用されたわけである。
このような民族的な悲劇をわれわれは体験してきたわけだが、もうひとつ忘れてならないことがある。あれだけの戦争で日本人もたくさん亡くなったが、アメリカ国民も多く亡くなっていることである。こういう観点から、日本を再び強力な国にするべきではないということが、マッカーサー司令部の占領政策の基本にあったと思う。
当時、日本政府も新しい憲法をつくらなければならないということで、内閣に憲法改正の担当相を決めて準備を進めていた。それと併せてマッカーサー司令部がやったことは、日本の教職員の代表者を集めて、学校の先生も労働者ということで、労働組合運動を推進した。そこを狙って伸張してきたのが共産党であり、共産党は教職員労働運動を支配するにいたった。それに対抗して社会党が、日教組の中にもうひとつの一派をつくった。
このように、まずアメリカの指導によって学校の教職員が変わっていったのである。そこには教育を通じて日本を作り直すという考え方もあったろうと思われる。
当時私はまだ学生だったが、当時はスクリーン(映像)、セックス、スポーツという、アメリカの「3S」が、将来日本の社会に大きな影響を与えるだろうと、いろいろな人たちが言っていた。
【憲法公布にいたる経緯】
まず日本政府が憲法の草案をつくった。ところがこれを昭和二十一年二月に、毎日新聞がスクープした。それを知ったマッカーサー司令官は、こんな憲法は認められないということで、マッカーサー司令部の中の二十人ほどを集めて憲法草案をつくらせた。それを日本政府に渡して、政府はそれを翻訳し、国会に出す準備をするのである。
日本の国会は当時まだ帝国議会で、敗戦の昭和二十年十二月に解散し、衆議院は一人もおらず、貴族院議員だけが残っていた。そういう状況の中で、昭和二十一年元旦に、天皇は「自分は神でない」という、いわゆる「人間宣言」をされた。そして二月に内閣の憲法草案が毎日新聞にすっぱ抜かれ、マッカーサー司令部は自分たちの手で憲法草案をつくり、そして日本に渡した――と、こういう経緯である。
その間、公職追放が行われた。戦争に協力していた人たちは、政界、官界、経済界から追放された。軍人も文化人も追放された。
こういう中で、四月に総選挙が行われ、この結果選ばれた新しい議員による国会において、内閣はマッカーサー司令部製の憲法草案を提案するわけである。そしてごく短い議論をし、一部手直しもあったものの、昭和二十一年十一月三日、これが決定する。そして六カ月後の二十二年五月三日に公布されるに至った。
本来は主権を回復したとき、占領下に作られた憲法の是非について議論すべきだったと思う。国際条約を読んでみても、占領した軍隊は相手国の国内法を変えてはいけないということが、ハーグ陸戦条約にはっきりと謳われている。そういうことも無視して、極東軍事裁判を開き、国際的な法規もなしに戦争犯罪人を告発し、“平和に対する罪”、あるいは“人類に対する罪”といったようなことで戦犯裁判を行った。そこで日本無罪論を唱えたのは独りインドのパール判事であった。
当時、すでに北朝鮮の金日成率いるパルチザン、それを応援するソ連軍、中国人民解放軍が朝鮮半島へ南下し、日本のすぐそばの朝鮮半島で、新しい紛争が起こっていた。これに際してマッカーサーは、原子爆弾を落とすことをワシントンに提案する。鴨緑江とか旅順とか大連あたりに原爆を投下し、下りてくる敵軍を抑えるべきだと要請したのである。しかしアメリカのトルーマン大統領はマッカーサー司令官を解任する。そして新しい司令官として来たのがリッジウェイ中将だった。
日本は朝鮮戦争が起こったため、朝鮮特需に沸き、中小企業が息を吹き返した。経済再生のメカニズムがそこから動き始めた。
そういう中で、学校の教育現場を見ると、教職員になる人がなかなかいなかった。そのため「でもしか先生」というのが現れるようになった。「先生でもなるか。先生しかなりようがない」という人たちだ。このような人たちが労働組合運動の中で赤旗を持って、教育現場を放ったらかしにして組合運動に走った。今日の日本の姿は、そういう教育の結果出てきたと言える。新憲法では日本の伝統とか、歴史とか、家族制度といったものは一切触れられていない。
こういう状況の中で、日本人は最近ようやく「日本はいったいどこにいくのか」という不安を抱き始めた。経済は混乱し、政治も安定しているとは言えない。こういった中で、やはり憲法を変えなければいけないという気運が高まってきている。 |